【四書五経とは】
古来、私たち日本人の祖先は東洋古典を読むことによって、自らを磨き、高めてきました。
その中で特に代表的な九つの経典を総称して「四書五経」といいます。
「四書」とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つの書物です。
「五経」とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つを指します。
正受老人(道鏡恵端禅師)「一日暮らし」 現代語意訳
ある人の話に、「どの人が言ったかわからないが『一日暮らしという生き方をするようになったら、心もさわやかになって体のためにも非常によかった』と聞いた。
なぜかというと、一日は、千年万年の初めであり、その初めの一日をよく暮らすようにしていると、その日は充実したものとなり、それは一生をよく暮らすことにつながるからだ。
ところが人間というものは、とかく翌日のことを考えて、ああでもないこうでもないと、まだ先のことについて取り越し苦労をして、一日をむだに過ごしてしまい、その日のことを怠りがちになる。明日もあるから今日はこれでいいだろう、という毎日が続いていってしまうと、今日の一日という意識もなくなってしまい、ついあてもない先のことを頼みとして、その日の自分自身の緊張感がなくなってしまう。
明日やればいいと言っても、その明日があるかどうかは誰にもわからない。人の命は、はかないものだからこそ、今日一日の生活はどうなってもいいということではなく、今日の一日を精一杯つとめ励むべきなのだ。
どんなにつらいことでも、一日のことだと思えば耐えられるし、楽しみだって一日のことだと思えばそれに溺れることもない。
おろか者が好き勝手なことして親不孝をするのも、人生は長いからそのうち孝行すればいいなどと考え、つい甘え心をおこしてしまうからだ。
どんなことでも、今日一日が自分の生涯だという気持ちで過ごせば、無意味な時間を過ごすことなく、充実した一日を過ごすことができる。一日一日と思って一生懸命に生きれば、百年でも千年でも充実して過ごすことができる。これから先、長い一生のことだと思うから、荷が重くなってしまって大変なことになる。
一生は長いものだと思うけれども、これから先のことやら明日のことやら、一年、二年、また百年、千年先のことやら、わかる人はいない。死ぬまでが一生であると思って長く生きることができるような気持ちになっていると、一生という時の長さのついのせられてしまって、だまされやすくなってしまう」と。
人生の中で一番大切なことは、今日ただいまの自分の心なのだ。それをおろそかにしていては、翌日などというものはない。今日をきちっと一生懸命に務めるように心がけなければ、明日という日も堕落した日になってしまう。今日一日をしっかりと務め、明日もまたそのような一日がくるようにしなければならない。
世の中すべての人に、先のことを考えてみることは、誰にもあることだ。しかし、今ここにある、この一刻の、この今を、どう生きるか、どう暮らすかを考えている人は少ない。
体充問うて曰く、文武は車の両輪、鳥の両翼のごとしと申しならわし候えば、
文と武とはニ色にて御座候や。
さて又いかようなるものを文武とは申し候や。
師の曰く、文と武に世ぞく大きなる心得そこない也。
世ぞくは うたをよみ 詩をつくり 文筆に達し、
気だても やわらかに花車〔きゃしゃ〕なるを文といい、
弓馬兵法軍法〔きゅうば へいほう ぶんぽう〕をならい しり、
気だてたけくいかつなるを武というならわせり、
みな似たる事のにぬことにて候。
元来文武は一徳にして、各別なるものにてはなく候。
天地の造化、一気にして陰陽の しゃべつあるごとく、
人性の感通、一徳にして文武の しゃべつあれば、
武なき文は真実の文にあらず、文なき武は真実の武にあらず。
陰は陽の根となり、陽は陰の ねとなるごとく、
文は武の根となり、武は文の根と成り。
天を経〔たて〕とし地を緯〔ぬき〕として、天下国家をよくおさめて、
五倫のみちを ただしゅうするを文という。
天命をおそれざる あくぎゃく(悪逆)無道のものありて
文武のみちを さまたぐる時は、あるいは刑罰にて懲らし、
あるいは軍〔いくさ〕をおこし征伐して、
天下一統の治をなすを武と云う。
しかる故に、戈を止〔やむる〕という二字をあわせて武の字をつくりたり。
文武をおこなわんための武道なれば、武道の根は文なり。
武道の威をもちいておさむる文道なれば、文道の根は武なり。
そのほか万事に文武の二は はなれざるものなり。
孝悌忠信の道をただしくおこなうは文なり。
孝悌忠信のさはりとなるものを退治して、つとめおこなうは武なり。
とえば春夏〔はる なつ〕の陽〔よう〕ばかりにて
秋冬〔あき ふゆ〕の陰〔いん〕なく、
秋冬の陰ばかりにて春夏の陽なければ、
万事を生成する造化、成就する事なし。
陰陽二気しゃべつあり といえども、本来同一元気の流行なるごとく、
元来文武、同一明徳なれば、武ばかりにて文なきは、
秋冬の陰のみにして春夏の陽気がなきがごとし。
文には仁道の異名、武は義道の異名なり。
仁と義はおなじく人性の一徳なるによって、
文武もおなじく一徳にて各別なるものにあらず。
仁義の徳を よくさとりて、文武のさたを あきらむべし。
仁にそむきたる文は、名は文なれども実は文にあらず。
義にそむきたる武は、名は武なれども実は武にあらず。
文武の正味を よくかみわけざれば、
心の闇いとくらく 万事のさわりおおかるべし。
さてまた文武に徳と芸の本末あり。
仁は文の徳にして文芸の根本なり。
文学礼書数は芸にして文徳の枝葉なり。
義は武の徳にして武芸の根本なり。
根本の徳を第一につとめまなび、枝葉の芸を第二にならい、
本末をかねそなはり文武合一なるを、真実の文武といい、
真実の儒者という也。
文芸ありて文徳なきは文道の用にたたず、
武芸ありて武徳なきは武道の役にただす。
たとえば根なき草木の実をむすぶこと あたわざるがごとし。
気だてやわらかに、たちふるまい花車なるを文といい、
たけくいかつなるものを、武用とかいがいしかるべきなどいえるは、
あさましき鼻のさきなる目論〔もくろ〕みなり。
見かけはやわからに、うわだるみし ぬかりたるものに、
武用かいがいしき人あり。
これを沈勇となづけたり。
世間の武功のある人を見るに、大概この沈勇おおし。
見かけは おにかみ〔鬼神〕のように たけく いかつにして、
抜群に臆病なる人あり。
これを羊質虎皮とたとえたり。
ひつじは むしも ころさざる やわからなるけだもの也。
虎は人をも けだものをも くいころす たけき獣〔けだもの〕なり。
ひつじに とらの皮を きせてみれば、
みかけは たけく すさまじけれども、したぢが ひつじなるによって、
見かけにちがいて いとあさましきふるまいなり、と云うこころなり。
かくのごとく ためしは眼前に たくさんなれども、
目明〔めきき〕する人、世にまれなりとみえたり。
紀 省子、王のために闘鶏を養う。
十日にして、王問う、「鶏すでにするか。」
曰く、「いまだし。まさに虚喬にして気を恃む。」
十日にしてまた問う。
曰く、「いまだし。なお嚮景に応ず。」
十日にしてまた問う。
曰く、「いまだし。なお、疾視して気を盛んにす。」
十日にしてまた問う。
曰く、「幾し。鶏、鳴くものありといえども、すでに変ずることなし。
これを望むに木鶏に似たり。その徳全し。
異鶏あえて応ずるものなく、反り走らん。」